SOUTH PARKの住人

1日1記事毎日更新!(という目標) 映画好きです。

振り返り ①

いや、違うな。

「今年も色々頑張っていきたいと思います」、じゃダメだ。

この「色々」ってのが俺をダメにしてる。いつも焦点が定まってない、焦点を定めようとしない悪いクセが出てる。

今、自分の人生は良くない状態にある。生活には困ってないけど、この先には何もない。これは認めなくちゃいけない。認めないと、何も始まらない。ぶっちゃけ、「本当に最悪な状況になれば死ねばいいや」くらいにどこかで思っていたが、実は死ねる勇気なんて全くないことも認めなきゃいけない。そうなるともう生きていくしかないのだ。

ちょっと今回は芸能人の自伝小説風に自分の人生を書き出してみてみる。なんかおこがましいけど、ブログってそういうとこだもんね。人生のまちがいさがしをしてみよう。

 

 

昔から自分はそこそこ完成された存在だと思っている節があった。小さい頃から、対して努力もせずともなんでもそこそこできたのが、今思えば失敗だったかな。

中学くらいまでは、本当に卒なくなんでもできた。友達もたくさんいたし、勉強もできたし、不自由ない家庭だった。生まれつき足にちょっとした持病を抱えていて、膝に強い負担がかかるような陸上スポーツはできなかったが、その分水泳をやっていたので体力もそれなりになった。けど、球技とかのチームプレイのスポーツは苦手だった。自分がみんなの輪を乱してしまうかもしれないという恐れで単純にゲームを楽しむことができなかったから。野球、サッカー、バレーボール、バスケは、今でも積極的にやりたくはない。でも観るのは大好き、憧れかな。小さいころから、やたらチームのバランスを意識する性格だったのか、嫌われたくないという想いが強かったのかも。そういう意味では、もしかしたら武道とか向いてたのかもしれないな。まあ痛めつけ合うなんて絶対ヤだけど。

 

中学は公立で結構治安の悪いところだった。自分が入学したころは幾分かマシになってはいたが、入学する3年くらい前までは男子は全員丸刈り強制だったし、その頃の名残りなのかヤクザみたいな教師がたくさんいた。朝は校門で竹刀をもって待ち構えていたし、忘れものをしたらみんなの前でケツバットされるような学校だった。そんな怖い中学だったが、小学校時代に築いた友人関係が幅広かったおかげで、かつての友が徐々にヤンキー化していってもそれなりの関係性を築けていた。バスケ部に入ったけど半年で辞めてしまったし、中学生活のほとんどが何にも属していない帰宅部だったけど、いじめられるようなこともなかった。良い友人に恵まれてありがたく思っている。

ちなみに不良的な生き方には全く興味が持てなかった。愛読書は「ドラえもん」だったし、「ROOKIES」より「キャプテン」が好きだった。まあ兄弟がいないのもあってそういう世界を全く知らずに育ったので、単純に怖かったのもある。

 

そして人生第一の壁、高校受験。壁のはずだったのだが、これに関しても、第一志望にさらっと受かってしまった。昔からなぜか本番にだけは強かった。勉強は嫌いだったけど、一夜漬けの才能だけはあった。塾には通っていたが、そんなに勉強しまくった記憶は無い。

 

高校は元男子校でむちゃむちゃ校則の厳しい学校だった。男子:女子の割合は8:2くらい。女子との交流は生まれない、ほぼ男子校のような学校。女子は近くにいるけど、見るだけ。眺めだけは絶景の安旅館のような感覚。

この高校は、私立で中堅くらいの進学校で、関西の中学でもそこそこ勉強ができるやつが集まる学校だった。馬鹿なやつも知的なやつもスポーツマンも満遍なくいたが、みんな話のわかるやつばかりで楽しかった。これまで公立学校しか通ったことのない自分からしたらその環境は非常に穏やかで過ごしやすかった。しかしここで実は初の挫折的体験をすることになる。

とある現実が発覚したのは1年のとき。初めて受けた中間テスト結果。なんとクラスの44人中44番目だった。初めて見たときは、一体それが何の数字か理解できなかった。これは逆に…?とか謎の発想をしていた気がする。そう、「自分がこのクラスで一番の馬鹿である」と発覚したのだ。今までいろんな壁を一夜漬けだけで越えてきたり、チームプレイの部活をしてこなかったのが完全に裏目にでたのか、積み重ねの努力をするといことを知らなかった。授業中は、机に伏せて爆睡したり、こっそりマンガを読んだり、窓の外を眺めながら隕石が落ちてくる妄想にふけったりと、まったく勉強してなかった。だからその結果は必然である。

しかし、ここで反省すればいいものの、自分は反省しなかった。もう取り返しのつかない馬鹿だった模様。そのまま3年間、ズルズルと40位あたりをウロウロしながら、授業をまともに聞くことなく、毎年留年スレスレのところで回避していた。今でも留年しそうになる夢を見ることがある。

毎日のように遅刻をしたりもしてた。「なんか今日は気分が乗らないな」と思ったら、駅でボーっとして、気分が乗るまで学校に行かず、本屋行ったり、TSUTAYA行ったりしてた。今思うとよく補導されなかったな。多分ここで『何かただならぬ事情がある人の顔を作るのが上手くなった。

それで昼前の4時間目くらいに、フラフラーっと登校するというルーティンができていた。こんな俺を周りのみんなどう思っていたんだろう、怖くて聞けない。先生には「体調が悪くて病院行ってました」と嘘をついていた。真面目な学校だった分、こういう嘘を疑われることもなかった。今思うと信じられないくらい不真面目な生徒だったな。この頃、今の怠け脳が完成されてしまったと思う。

ただ高校生活は毎日がすごく楽しかった。女っ気はなかったけど、厳しい校則を掻い潜りながら、毎日友達とふざけて遊んだりして充実していた。趣味がものすごく広がったのもこの時期だ。映画、ゲーム、ギター、お笑い、スポーツ観戦などの趣味はこの時期に構築された。この頃は下手くそなりに草野球遊びをしたりもしてた。何をしても楽しかった時代。

映画は小学生のころから好きだったけど、この高校時代は毎日のようにTSUTAYAに通って何かしら観てた。アカデミー賞作品賞を最新作から遡って観て行ったりしてた。『十二人の怒れる男』の面白さに腰を抜かしたのもこの頃だ。白黒映画への偏見が消え去った。

お笑いが好きになったのもこの頃。当時もテスト前日に一夜漬けする性格は変わっておらず、その頃に深夜のテレビのお笑い番組を覚えた。さすがにテレビを見ながら勉強するのは難しく、代わりに深夜ラジオの世界に踏み込んだ。

ラジオはAM派だったので「ANN」「馬鹿力」「サイキック青年団」とか色々聴いていたけど、特に大好きだったのは、「MBS夜な夜な倶楽部」という2004年から2005年にかけて放送されていたローカルラジオの火曜日、畑中フー・打越元久の「ハーフータイム」だった。毎週火曜の深夜1時が楽しみで、必ずMDに録音して、狂ったように繰り返し聴いていた。ちなみに畑中フーさんは、M-1グランプリのナレーションや「ほねっこたべてー」のCMでもお馴染みのナレーター。打越さんは、淡路島の米屋を営まれているシンガーソングライター。ゲスい下ネタも含めて死ぬほど話が面白い。やしきたかじんの元弟子。普段の話ぶりからは想像がつかないくらいの美声で唄う。

遺した想い

遺した想い

  • アーティスト:打越元久
  • 出版社/メーカー: cozee records
  • 発売日: 2018/11/04
  • メディア: CD
 

 

このオッサン2人のトークになんでこんなにハマったのか、今でも謎だ。でもこの出会いには本当に今でも運命的なものを感じている。2006年に大好きな祖母が亡くなったときも、毎日大音量で聴いて自分の泣き声を掻き消してた。「タッチ」の上杉達也は和也の死をクラシックで掻き消していたが、自分はオッサンの下ネタラジオで掻き消していた。あの時クラシックを聴いていたら、今頃フィルハーモニーに属していたかもしれない。ないか。

でもあの絶望的な悲しさを忘れさせてくれたのは今でも本当に感謝している。どんな辛いことがあっても、笑い話で嫌な思考を止められることに気づいた。この時にあのラジオに出会ってなかったらどうなっていたかわからない。本当に精神がぶっ壊れていたかもなと思う。それくらい辛かった。

 

で、その後なんと大学受験も一発で成功してしまった。周りの友達が半分くらい浪人になっていく中、一番成績の悪かった俺が現役合格してしまった。本当に一夜漬けの才能だけは凄かったと思う。

そしてこの大学入学は、人生における最大のターニングポイントだと今でも思う。

もちろん、悪い方向にターンしたのだが。