SOUTH PARKの住人

1日1記事毎日更新!(という目標) 映画好きです。

振り返り ②

大学では大層やらかした。というか、人生の貴重な時間をかなり棒に振った。

 

先にも述べたが、周囲の友人が受験を失敗し浪人の道を選んでいく中で、一番成績の悪かった自分は現役合格を果たした。

格通知が届いたときのことはよく覚えている。家は親が共働きだったので、あらかじめ母親が準備していた晩飯を一人で食べるのが普通だった。夜の6時半くらい、郵便のバイクのエンジン音が聞こえて、直後にポストのガタンという重みのある音が響いた。届いた合格通知書を見たとき、「ああ、肩の荷が下りるってことのことか」と心の底から思った。張り詰めた緊張の糸が一気に切れた瞬間だ。けどこのとき自分が思っていたのは、「やった!合格だ!」ではなく、「ああ、もう勉強しなくていいんだ」だった。今思うと、この時点で自分は大学に入りたかったから勉強していたのではなく、勉強から解放されるために勉強していたのだなと解る。勉強したくない一心で、一番成績の悪かった自分が誰よりも勉強したのだ。このエネルギー、非常にムダである。ただこれが自分の本心であり全てであったため、大学に入ったらどうなってしまうかは、自明の理であった。

 

大学に入学してからの記憶は本当に薄い。入学式に行ったような気もするが、何も覚えていない。高校生活がわりと楽しかったので、このステップアップに対して魅力を感じなかった。高校時代の友達は何人か一緒に進学したが、自分は最も不真面目だったと思う。遊ぶでもなく、勉強するでもなく、サボって家に閉じこもることの方が多かった。本当に、週1くらいでしか通ってなかった気がする。最初の1年くらいはまだその友人たちと遊んでいたけど、2年目くらいから向こうにも新しい交友関係が生まれ始めたらしく、疎遠になっていった。唯一、3年目くらいまでつるんでいたやつも、結婚するために働くといって退学してしまった。それ以降は、本当に学内ではただ不毛な時間を過ごしていた。丸一日、声を発さないみたいなことが普通にあった気がする。

 

キャンパスライフというものは、授業を選択するも自由、行く行かないも自由、どういう人間関係を作るも自由、そういう仕組みは自分には合ってなかった。自分はある程度束縛されていないとやる気が起きない。本当はその自由の中で自立を学び、将来を見定めていく場所だったはずなのだが、驚くほどなーんにもしなかった。大学に入ってまで、懲りずにモラトリアムを謳歌しようとしていた。

一瞬、軽音楽部に入ろうかとも考えたりしたし、高校時代の友人に誘われたりもした。でも、うちの大学の軽音楽部は200~300人いたそうで、遊び半分なやつが多いような雰囲気がして、どうも軽そうな感じがした。軽音だけに。やるなら本気でやりたいとか当時は偉そうに思っていたんだよな。やらないくせに。

小・中のころから、塾とか、習字とか、スイミングとかいろいろやらされていて、高校では厳しい校則と1時間半くらいかかる通学時間という不自由さだったのもあって、その反動が一気に噴出したのがこの時期だったと思う。そもそも規則の厳しい高校時代でもわりと好き放題やっていたので、自由な選択肢を提示されたら、何をやっても咎められない大学にわざわざ行くことなど考えられなかった。親に学費を払ってもらっているくせに、我ながら最低だったと思う。最終的にちゃんと卒業できて本当に良かったと思う。

 

何も得ることの無い大学生活だったが、人並み以上の人間関係を構築したいと思い、バイトを始めた(大学に行けよと思うが)。レンタルビデオ屋だったが、これはとても楽しかった。映画に囲まれてるだけで楽しかったし、何より、雇用関係とは言え人に必要とされるという感覚が悪くなかった。あと同年代ではない人との交友関係も新鮮だった。この近すぎず、遠すぎずの関係性、それに後輩キャラでいられる状況が心地よく、学校は週1でしか行かないのに、バイトは週6で入っていたりした。こっちで友達も増えたし、彼女もできたりした。ちなみに大学で出来た友達は0である。友達というか、知り合いすらも0である。あの大学で俺は存在していなかったと同義だ。図書室でサボってたときに、ウォークマンで聴いていた「ナインティナインのANN」内の「トリビュート」というコーナーの杉本彩の下ネタソングを大音量で音漏れさせたときが、一番周囲に俺が認識された瞬間だと思う。思い返せるの、マジでそれだけ。

 

この頃も結局、趣味といえば家でずっとラジオを聴くことだった。今みたいに裏番組を自由にradikoで聴けるみたいなシステムはなかったので、すべてを網羅することはできなかったが、それでも深夜ラジオはかなりの数を聴いていた。この頃は地上波ラジオじゃ物足りず、ネットラジオの世界に足を踏み入れていた。それがもう楽しくて楽しくて、24時間ぶっ続けで聴いていたこともあった。放送しているのはみんな素人だが、俺がBBSに書き込んだことをストリーミングで多少ラグがあるとはいえ、すぐにフィードバックして読んでくれるのが面白くてたまらなかった。ハガキ職人ならぬ「レス職人」っていう言葉があったけど、当時はそれだったな。DJが自分のネタで笑ってくれるのが何よりも嬉しかった。当時の自分はMIDI音楽や、Flash動画とかも作る技術があった。今から思うと俺オーパーツ時代だ。今じゃできる気がしない。まだできるのかな。MIDIFlashももう消滅したけど。

 

ニコニコ動画が台頭してきたあたりでネットラジオも廃れてしまったけど、今でもその時の録音を聴くことはある。あれが俺の青春だったかもしれない。その時に知り合った友人の1人は、カンヌにもノミネートされた映画の製作に携わっている。すげえな、あのころはただのキモオタだったのに。そいつは映画だけは死ぬほどみていて、高校時代に引きこもっていたときに近所のレンタルビデオ屋の映画をア行からワ行までほぼ全部見たと言っていた。その時点で8000本は観ていたはず。やっぱり愚直に何かをやっているやつは何かしらの成果を残すということを知った。「何か続けていれば…」、この後悔は今もずっと心の核にへばりついている。

 

この後、就職してなんとか社会の枠に収まっている現在の自分に繋がっていく。

まだ、ここに書き残すには忍びない。何も成してないし。この続きは、もう少し先かな。自分の中のまちがいさがしは一旦ここまで。(今さらこの曲にハマっている) 

 

まちがいさがし

まちがいさがし