SOUTH PARKの住人

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映画レビュー「さよならテレビ」

※文字サイズが狂っていたので修正しました。あと文章を加筆修正しました。(検閲されたわけじゃないですよ)

 

※ネタバレあり

 

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2018年9月に東海テレビ放送が開局60周年を記念して放送した番組に新たなシーンを追加したドキュメンタリー。東海テレビ放送のスタッフがテレビの現状を確かめるため、自社の報道部にカメラを向ける。『ヤクザと憲法』の土方宏史監督と、プロデューサーの阿武野勝彦が再び組む。テレビの現場のリアルな状況を映し出した一作となっている。

 


薄っぺらいメディアリテラシーはもういらない!映画『さよならテレビ』予告編

 

今年の年明けにポレポレ東中野で鑑賞。

年々、この東海テレビドキュメンタリーシリーズへの注目度が上がり、"映画"として気取ってしまった感は否めないけど、その雰囲気すらも前フリとして内包してしまった攻めた内容。何が真相なのか2重、3重、4重にも読み解くことのできる構造になっていて、その上ドキュメンタリーの在り方にまで切り込んでいる。正直「今作でシリーズ終わらせるつもり?」と感じてしまうほどのもの荒業でした…。

ちなみに2014年の同監督が制作した『ホームレス理事長 ~退学球児再生計画』は私の生涯映画ベスト10に入れたいほど好きです。

 

 

 冒頭でテレビ局員の方が職場見学に来ている小学生たちに、報道とは、

1.事件・事故・政治・災害を知らせる

2.困っている人(弱者)を助ける

3.権力を監視する

という原則があると説きます。でも現代ではこのような理念を持って働くマスコミ関係者は少なくなってきたという。作中でも、「共謀罪の制定」が話題になっていた頃に、「テロ等準備罪」と呼ぶか「共謀罪」と呼ぶかで、局の在り方が表れると言ってました。リベラル派であるか保守派であるかってことですね。東海テレビは「テロ等準備罪」という言葉を使って現政権に忖度するスタンスを取ってしまいます。そんな局の姿勢に、局員の澤村記者は落胆してしまう。「権力を監視する立場の者が政府の顔色を窺っていてどうする?」と。その使命感はとてもカッコよく見えるし、報道という仕事の誇りを感じるエピソードなのですが、東海テレビはその後、セシウムさん事件という救いようのない大罪を起こしてしまうわけで。本作はテレビ局の裏に潜む、深い深い闇を探っていくドキュメンタリーであります。

 


「怪しいお米セシウムさん」 東海テレビ番組中に不謹慎な表示

 

本作品の中には、報道者として強い誇りを持っている澤村記者と、マスコミという職業のリスクを痛烈に受けている福島キャスターと、アイドルに薦められてなんとなく業界に入った新人の渡邉くんの3人がメインキャラクターとして登場します。

上のマスコミの理念に当てはめてみると、1.が福島さんで、2が渡辺くんで、3が澤村さんって感じですかね。この3人とも、現状のテレビ局というものを象徴していて面白い。報道には国と戦う使命があるが、その分世間からバッシングされるととも少なくない。派遣社員を酷使してでも番組を作らなくてはいけないブラックな側面もある。作中ではそれぞれが並行して語られ、群像劇の体を成しドラマ性を高めていて、映画として見やすい

 

その中でも特にセシウムさん事件で一番とばっちりを受けた福島キャスターのパートは興味深い。夢を持って報道の世界に飛び込み、いよいよ東海テレビの看板キャスターに。セシウムさん事件の時には世間からやり玉に上げられ、会社としては一種の捨て駒のように扱われてしまうが、それでも家族は養っていかなくてはならない。良くも悪くも、日本のサラリーマンの縮図のような存在。終盤のビールを飲むシーンは白眉ですね、ちょっと泣きそうになったもの。感動しました。

 

自分もテレビ局や制作会社で働いていた知り合いが何人かいますけど、本当に本作で出てくる契約社員の渡邉くんみたいな感じ。休みは週1しかなく、その休みも編集作業が忙しくて家に帰れずにネカフェでシャワーだけ浴びて会社に寝泊まりするみたいな。『さよならテレビ』で色んな対外的なしがらみの中で奔走するテレビ局員という名のサラリーマンの姿は、共感するポイントもありつつ、「こんな恐ろしい職場では働きたくねえなぁ(゜-゜)」と自分がまだ恵まれた環境にいることを省みて少し安堵するのでした。

 

とまあ、そのように本作は非常に感情を揺さぶられやすい作りになっているんですが、なんとなくうっすらとした違和感を感じつつも、最後まで楽しみながら観てしまいました。そこに落とし穴があるとも知らずに…。

 

 

 

 

 

 

 

-----------------------------------この先ネタバレ------------------------------------

 

 

 

 

 

 

 

終盤にて、実はこのドキュメンタリーには意図的なヤラセ演出が含まれているということが明かされます。例えば、ダメ社員の渡邉くんが生活に困窮してスタッフの人に金を借りるシーンがあるのですが、金を渡しているのは実は監督本人で、そういう創作のための演出だったとネタばらしされます。

ここは非常に賛否が分かれそうであるポイント。全てが演出なわけではなく、あくまでも基本的は事実に基づいているので、要所要所で脚色していると言ったほうがいい。そこがまた厄介なのです。

渡邉くんが困窮しているのはどう見ても本当だし、仕事のズボラっぷりも素人に演じられる範疇を超えているのでガチでしょう。ぶっちゃけ自分は、金を借りるシーンを見て「かーっ、コイツは本当にダメなやつだなw」と面白味を感じてしまったのも事実だし、その反面、うっすら「なんか、演出くさくね?」と思ってもいました。

でもに対して本気で疑問を抱くことは無かった。なぜなら自分の東海テレビドキュメンタリーシリーズへの信頼がその疑問を曇らせてしまっていたのです。このシリーズが嘘つくわけないもん!と思い込んでおりました。

 

一体なぜこんな作りにしてしまったのか?起承転結を持たせて映画としての体を成すため?テレビ局を美化してイメージアップするため?もろもろマスコミの実態を煙に巻くため?

そうであれば「真面目に見て損した!裏切りやがって!(# ゚Д゚)」と言いたい所なのですが、よく考えてみたら、そもそもドキュメンタリーっていう映像作品である以上、誰かしらに編集をされて手が加えられているんですよね。

編集するという行為は、その時点で、何が隠され、何が誇張され、そして歪曲されているか、もはや観客には計り知ることはできなくなる。それでも我々は"ドキュメンタリーとは真実を語るもの"として、何の根拠もないのにうっかり享受してしまっているのです。

それがいかに危険であるかということを、監督は本作品まるごと犠牲にして、いや、東海テレビドキュメンタリーシリーズそのものを犠牲にして問うたのではないでしょうか。(今作でシリーズ終わらせるつもり!?と感じた点はココ)

 

 

 

でも先にも言いましたが、本作の全部が創作というワケでは無いのです。

セシウムさん事件は実際に起きてしまったし、「こんなことが起こるなんて局員のモラルはどうなってるんだ?」と誰もが思うところでしょう。渡邉くんみたいな社員が普通に存在する現場なら、こんな不祥事だって起こり得るような気がしますよ。でもそんな不安定な人間たちがテレビを作り上げている、それが今の日本のマスコミの現状であるのです。

 

けど、本作がマスコミが悪だと語っているかと言うとそうではない。昨今の"ネットde真実"みたいな人たちが叫ぶ「マスゴミよりネットの方が信用できる!!」っていう意見も多いけど、澤村さんの記者としてのポリシーに嘘は無いと感じたし、福島キャスターの信念は否定できない。マスコミにもプライドは確かにあった。

 

結局のところ、何が虚構で何が現実かは、テレビやスクリーンというフィルターを介していたら読み解くことは不可能なのです。ドキュメンタリーというものは現実を切り取っているものだけど、現実そのものではない。ドキュメンタリーは鑑賞した人それぞれが、その映し出されたものから何を読み解くのかが重要であるのだと。

 

でも自分が最も怖くなったのは、もしかしたらこの映画がこの内容で上映できたこと自体が、何らかの抗えない権力に検閲された産物であるという意味にも思えてしまったところでね…。もしかしてセシウムさん事件すら視聴率を稼ぐためのヤラセ?とかまで思ったり…。メタのメタのメタのメタ、終わらない無限地獄。真実と嘘は表裏一体であるという事実を端的に表したものが「ドキュメンタリー」なのだと思うと、非常に恐ろしく感じるところでもあります…。

 

『FAKE』の森達也監督は本作を観て何を思うのか。

 

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  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: Prime Video