SOUTH PARKの住人

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「エヴァンゲリオン」の中に補完された我々

この記事はこれを聴きながら書いています。


【30分耐久】シン・エヴァンゲリオン劇場版:||「VOYAGER~日付のない墓標」林原めぐみ

 

※ネタバレはごくわずかです

 

「シン・エヴァンゲリオン劇場版」はこれまでと比較して、庵野秀明の作品に対する向き合い方が決定的に変わっている。旧劇場版である「エヴァンゲリオン劇場版」と対を成すタイトルとなっているのも理解できた。端的に言うと「お前らは現実に帰れ」というメッセージから、「俺は現実に帰る、みんなも帰ろう」に変わった。

大前提として、庵野秀明エヴァンゲリオンというアニメ作品を使って自己啓発をしている。自分の世界や他人に対する接し方、考え方、思想を作品内のキャラクターに代弁させている。

似たような方向性で言うと、宮崎駿富野由悠季、実写だとタランティーノあたりであるが、個人的に最も近いと感じるのはラース・フォン・トリアーのイズムである。宮崎駿はどちらかというとジョージ・ルーカスのように、自身の思想をファンタジーにどっぷりと変換することができるが、庵野秀明やトリアーそうではない。創作の過程で「自分の現実はフィクションに置き換えられるようなものではない」という自己矛盾の壁に常にぶつかり、堂々巡りとなり、自己批判に至るという過程を繰り返している。旧劇の「Air/まごころを君に」はその最たるもので、作中でも虚構と現実の境目が不安定になっていて、登場人物もこれまでの物語も全て破壊し、シンジに自慰をさせたり、自身への嫌悪感をアスカに代弁させるという自傷行為に帰結している。トリアーが「ドッグヴィル」の製作中に、周囲から愛想を尽かされ、針の筵状態になっている出演者に自分の悪口を言わせるところを撮影し、そして鬱に陥るというアレを想起させる。(詳しくは「メイキング・オブ・ドッグヴィル」参照)

基本的に過度な自己啓発は、他人から見ると「気持ち悪い」のだ。分かってもらおうとすればするほど分かり合えない。その心の壁がATフィールドとして作中に表現されているが、バリアを破ろうとすればするほど攻撃的になってしまう。相手を蹂躙することになってしまう。そういうジレンマの果てに心身を喪失し、批判されても「エヴァ」を作らなくてはいけないという外圧から鬱に発展してしまうことは想像に難くない。その上、「ああ、今の俺って気持ち悪いんだろうな」と俯瞰して見られるタイプは更に不幸である。

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(ティザーイメージビジュアルのキャッチ、「非、そして反。」)

 

「シン・エヴァンゲリオン劇場版」は非常に歪な作品だった。結局のところ、「Q」から始まった新しい物語は、エヴァンゲリオンシリーズそのものを畳むために用意されたものであった。作中で14年という歳月を経過させたのは、新劇場版のリビルドという元々の構想の放棄であると感じる。「Q」はまだ「お前ら14年間も何してた?」という観客に向けての意図が含まれていたように感じたが、「シン」にはほぼそれを感じない。むしろ、全てが庵野秀明自身に向いており、肯定的に作られている。これまでの成功や失敗も、喜びも挫折も全て受け入れて、まるで会社とは逆方向の電車に乗ったような、迷いの無い作品だった。

 

庵野秀明にとって、ストーリーやキャラクターはあくまでも「自分の内面を語るため」の装置に過ぎない。「シン・ゴジラ」は創作物と割り切っていたように感じるが、「エヴァ」は違う。呪われた庵野秀明の人生そのものだ。「Q」で語られた「エヴァの呪縛」なんぞは、まんま感じているそのものの意味だろう。TV版から旧劇、新劇全てを含めて、シリーズ全体が情緒不安定な状態で作られたことは認めた上で、それでも「エヴァンゲリオン」を終わらせることを目指した。放棄することも出来ただろうけど、完結させた。作中でも何度もシンジに言わせていた「落とし前」というワードはまさにそれである。

 

でも困ったことに「エヴァ」ファンはどんな展開になってももう驚かない。どんな展開になっても批判するし、祭り上げられる。今回の完結編を、旧シリーズへのオマージュに全振りした懐古作にすることもできたし、エンターテインメント超大作にすることもできたし、実写パートを織り交ぜまくったメタな作品にすることもできた。しかし今回の「シン・エヴァンゲリオン劇場版」はそのファンをも驚かせた。まさかの観客を意識していない物語だった。ただ自身の創作物を終わらせることを目的としている。庵野秀明が変化し、吹っ切れたということが最大の裏切りでありサプライズだった

 

そもそも物語というものは作者のわがままで作られるべきだと思っている。個人的な想いが乗っているから個性が出て面白いし、理解できない内容も多いから物議も醸す。第三者の手が入り調整されてしまっては、それはもう原作ではなくなってしまう。「スター・ウォーズ」がその最たる例で、ジョージ・ルーカスの手を離れた時点で、もうその物語や登場人物はただの飾りだ。作者の魂が宿っていないのならば、二次創作物でしかない。

エヴァにも「器」であるとか「入れ物」というワードが登場する。綾波レイではない見た目だけ同じの何かが登場する。本来のアスカではないアスカが登場する。第三者として登場するマリが一体何なのかは特に語られない。これは庵野秀明の手を離れ、一人歩きすることができる新しい登場人物たちであり、今作のシンジはそんな彼女たちをみんな受け入れる。何にも固執せず、親からも使命からも解放され、自由な意志というものを手に入れる。そんなシンジを見て、我々も解放された。きっと観る側も「エヴァを楽しむ」ではなく、「エヴァを観なければならない」という想いに囚われていて、庵野秀明自身も「エヴァを作らなくてはいけない」という呪いにかかっていた。

 

「Q」という最大の試練を乗り越え「シン」へと繋ぎ、物語をちゃんと終わらせたのは、監督のとてつもない手腕や才あってのものである。何度も心が折れ、心無い批判に酷く傷つくこともあったようであるが、その精神が保たれ、完結をこの目で見届けることができたというこの事実に本当に感謝したいと思う。

シリーズ完結という終わりを通じて皆の想いが一つになった。我々は「エヴァンゲリオン」という物語の中で補完されたわけだ。

 

Shiro SAGISU Music from“SHIN EVANGELION"

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