SNSの話。
職場のエレベーター乗ってたら、他の会社の従業員の若い女性が、気怠そうにスマホいじってるところよく見る。狭いからついつい画面が目に入るんだけど、九分九厘という頻度でインスタを見てるんだよな。エレベーターの壁にもたれながら色んな人の結婚式の写真とかバーベキューしてる写真を見てる。新聞を読んでいるサラリーマンのように無表情でSNSを眺めている。自分も情報収集などを目的としてTwitterを見ることはまだあるので他人事ではないが。
でも何だかこれって不思議な光景だなと今さら思う。なぜみんな知人の情報を集めようとするのだろう。ワンチャン恋愛感情を抱いている相手がいて「その人のことなら何でも知りたい」「少しでも近づきたい」という若干のストーカー的意図ならまだ全然理解できる。
でも、これから仕事に向かう(ないし休憩中)に、友人たちの日常を、小汚いエレベーターの中で、サッサとスクロールしながら流し見するのって、よくよく考えたら何なのだろう。皆それを見ながら一体どんな感情を抱いているのだろうか?改めて思うが、みんな本当にそれを見たくて見てるのだろうか?
SNSを利用する目的って、ビジネスとか思想の流布を主としてる人以外は、一人で居るときも誰かと繋がれて孤独を埋められるという所に魅力を感じてSNSをやってるんだと思うのです(ソーシャルをネットするサービスなんだし)。
でも思うのだが、もはやSNSを見ることによって余計に孤独感を覚えないかね?投稿する人は、それなりに自分の行った行動を自慢気にアピールするわけだし、承認欲求もあるから、なるべく楽しげに見える画像とかを上げるわけだ。そういうのって、本当に見たいかね?基本的には誰だって人の自慢話とかあんまり聴きたくないよね?それでもSNSだと自分からそれを欲するようになるのは何故なのだろう。
結局、それの行き着く先ってどっちの日常が優れてるか(映えてるか)どうかを張り合うバトルに発展することになりがちですよね。自分が中高生だったときにSNSなんてあったらと想像すると怖い。とてつもない怨嗟が渦巻いてたと思うのだ。今の時代の学生たちのストレスってヤバそうだ。
一人ぼっちなのが辛くてSNSをして誰かと繋がる→SNSを見て孤独感を覚える→その孤独感を埋めるためにSNSを見る、というループに陥って、だんだん心が憔悴していき、鬱になる人って多いと思うんだよな。
自分もどちらかというとスマホ依存症である。昼飯を食うときも、片手で常にスマホを持ち漫画を読んでいる。でも最近、マインドを少し変えるようになってから思うのだが、暇だからって何か視覚情報を入れ続けないといけないのだろうか?耳が寂しいからって常にイヤホンで何か聴いてないといけないのだろうか?「何もしていない時間」だってあってもいいんじゃないか。何も外的要素を取り入れなくても、自分の中で色々思いを巡らせたり、ひらめきみたいなものを待つことだってできるんじゃなかろうかと。
自分がスーパー銭湯に行くのが好きなのは、入浴中はスマホを見られないから、自ずと自分と向き合う時間になるからだと最近思っている。スパ銭にはテレビも無くていいのだ。そうやって瞑想したり頭の中を整理することが一番落ち着くんだよな。いわゆるマインドフルネスってやつだと思いますね。(あんまりその定義は知らんけど)
近頃は暇なときそういうことを考えたりしている。