SOUTH PARKの住人

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世界の終わりには必ずSNSが登場する説

SNSに対して本気で危険を感じている人はどれくらいいるのだろう。自分は常々、いずれ人間社会を滅ぼす存在にすらなり得るのではないかとも思っていた。

こっから先はずっと抱いていたそんな想いを書き殴っているので、長いです。

 

 

SNSは世紀の発明だと思われていたが、実は破滅へと導く劇薬だったのではないか。そして人類の在り方を変えてしまったのではないか。なぜ人はこの数千年という歴史の中で、民族という括りを作り、国境という線を張り、家というものを建て、各々がその隔たったナワバリの中で暮らしてきたのだろうか?

思うに、1人1人がさまざまな想いを巡らせてしまう複雑な生き物が、それぞれの個を尊重することを求めて暮らしていくには、一定の壁が必要である。人間は軍隊蟻のように、生存本能のみで同じ種族で互いが互いのために身を捧げることができない生き物だ。

 

人間が壁を持たずに剥き身でいるとどうなるか。きっとすぐに戦になる。これは原始時代でも、令和の時代でも同じだろう。いずれ戦争になり、殺し合う結末を迎える。己が優位性を保つためなら、簡単に他人を踏みにじることができる生き物だ。先人たちはそれを理解していた。今の世界は、これまでの数多の犠牲の上に構築されている。

 

SNSはその壁をいとも簡単に取っ払ってしまった。SNSは人と人の意識を数珠つなぎに拡げていくことを目的とした擬似的なもう1つの世界である。「所詮ただのインターネット上のホームページでしょ?」と思う人も多いと思う。だからこそ、人はこの存在の危険性に気づかなかったのだ。SNSは仮想空間の中で存在しているので、物理的な意味での触れ合うことは無い。直接殴り合ったり、抱きしめ合ったりは出来ないが、お互いの思想、精神、心の声をぶつけることはできる。

 

黎明期のSNSは、ちゃんと壁を作ることに重きを置いていたように思う。MySpaceFacebookmixiなど、招待制を用いたり、閉鎖的なコミュニティとして存在していた。ただしTwitterの普及あたりからその意識は変革していった。従来のSNSを限りなく簡素化し、多くの人の目に自分の言葉を伝えることを可能としたものが主流となった。Twitterは大いに流行し、多くのスポンサーがついた。そしてその簡潔さとユーザーの多さゆえに、Twitterは政治にも利用された。「いいね!」や「リツイート」など、文章すらも必要としない自身の思想のみを主張することのできるボタンを用意することで、疑似的な民意を作り出すことができる。それからは招待制のサイトもだんだんとオープンになっていき、「いかに多くの人に目に自分の考えを届かせることができるか」がSNSにおける魅力の基準となっていった。

 

現在のSNSには、ほとんど壁は存在しない。通常なら会話をしたり連絡を取ったりするはずのない、隣町の見知らぬ人であっても、知り合うはずのなかった別のクラスの同級生だとしても、芸能人だとしても、大統領だったとしても(読むかは別として)、直接自分の言葉を投げかけることができる。

 

これは真の自由、国境の無い世界が誕生したと言えるようにも思える。何でもない私人が、立場の全く異なる公人に直接メッセージを送ることができるのだ。SNSの発明は世界を大きく変え、そして変えることができる存在となった。でもこれは神から与えられた現象でもなんでもない。単なる資本主義社会の企業が作り出したビジネスのためのプログラムでしかないのに。SNSが本来のコミュニティツールだった時代は既に終わり、今あるそれは全くの別物である。それはバラク・オバマTwitterで大統領選のキャンペーンを発信し始めたときか、NHKニュースが個人のつぶやきを報道に利用し始めたときか、SNSの声が民意として法の採決に歯止めをかけたときか。その時歴史は変わった。

 

「いいね!」というシステムから派生して「バズる」という風潮が生まれた。家にいながら、大した努力もせずに世界中の注目を浴びることができる。現在は「過激な言葉を不特定多数の人に向けて放つとバズって自己顕示欲が満たされる」という遊びまでまかり通っている。これを義務教育も終えていないような子供たちでも行える。でも冷静に考えると、これは「渋谷のスクランブル交差点で全裸になってみたらみんなに見られて興奮して気持ちいい」くらいのアンモラルな論理だ。そこに何の差があるのかと言うと、犯罪か犯罪じゃないか、その差だけである。

 

なぜTwitter上では、実社会で許されていないことが許されているのか。それは法的に規制されていないからに他ならない。規制がなければ人はやりたい放題をする。相手を殺すまで罵詈雑言を投げかけることなど躊躇なく行えるだろう。

極端な話、「客観的な正義の無い相手は死ぬまで殴り続けても罪にならない」という法律があれば、おそらく毎日のように人が殺される。しかもSNSではその正義を決めるのは集団化したマジョリティたちである。これがもしSF映画だったら終末世界、ディストピアだ。しかし、それが今の現実だ。SNSにおける誹謗中傷は狡猾になり、誰かがあの手この手で作り上げた正義として日々形を変える。それを明確に罰し規制できない状況だ。極端な話をすれば、被害者がその被害を訴えなければ、たとえ堂々と集団殺人が行われたとしても、泣き寝入りになる可能性すらある。その上「スルースキルを身に着けろ」などという論理が正論としてまかり通っている。これは犯罪者側にしか利の無い理屈だ。今や犯罪が正当化された無法地帯と化している。

 

人間の民度など所詮知れていることは、人類の叡智が既に見出している。だからこそ国家があり、法律があり、警察がいて、秩序を保っている。SNSだってただの法の下にある一般人が利用しているのに、実社会と異なるモラルの基準が構築されていることは異常だ。

中国では世界基準では考えられないほどの凄まじいネット検閲が行われているが、将来的にはこれが世界の在り方としては正しかったと言われることになるのではないだろうか。そもそもインターネットという存在自体が、早い段階でもっと厳しく規制されるべきだったのではないだろうか。世界はインターネットを甘く見ていたのではないだろうか。例えばイスラム国はネット上で思想を広げ、多くの信者を生み出し、たくさんの人を殺害した。それでも未だネット世界を自治することは敵わない。なぜたら、もう人間の手に負えるものでは無くなってしまったからではないか。

 

もう人類はSNSという甘い蜜の味を知ってしまった。これまで何千年かけて築いてきた世界の壁を取っ払うと、好きなだけ他人を傷つけることのできる、社会の抑圧から解放された理想郷が生まれた。これを知ってしまった世界は、もう簡単には元には戻れない。このまま放置した先にあるのは、他人を蹂躙することの快感に目覚めた人類がもたらす破滅だけだと思っている。たとえアメリカがTwitter社を反社会的組織として抹殺したとしても、似たような別のツールが生まれるだろう。人間の欲求に歯止めをかけることはできない。資本主義の最大の欠点はもしかしたらここにあるのではないかとすら思う。

 

オカルト地味た話になるが、もし、この宇宙に抗えない大きな流れ、それこそ運命のようなものがあるとしたら。1つの優れた知的生命体が星に文明を築き、その土地を支配していき、その生命体はいずれインターネットというものを生み出し、SNSを開発する。実はそれは、星の生命体が終焉を迎える時には、必ず訪れる事象だった。。みたいなことなのかもしれないとすら感じる。

 

この世界に手塚治虫の『火の鳥』が実在しているとすれば、「ああ、またこの生命はSNSを生み出したのですね。星の終わりには必ずこうなって滅びがやってくるのですね。」とつぶやいていると思う。

 

そういえばTwitterって名前は「鳥のさえずり」からきているな。

 

……………そうか、あのTwitterのアイコンの鳥こそが…、

火 の 鳥 だ っ た の だ  (不要なオチ)

 

火の鳥 3

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