SOUTH PARKの住人

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映画に正解など必要なのだろうか


映画やドラマを観て「わかんなかった」という感想が増えた理由(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース

良くも悪くもなかなか興味深い記事だった。言いたい事は非常に理解できるが、果たしてそれが本当に映画ファンとして正しい在り方なのか、色々と考えさせられた。

 

「口では相手のことを『嫌い』と言っているけど本当は好き、みたいな描写が、今は通じないんですよ」

この記事では「観客が馬鹿になってるから」「馬鹿な観客の意見がSNSで目立つから製作者が影響された」という結論に至っているが、そんな単純な問題ではない気がしている。

結局、「人それぞれ受け取り方が違う」という物の見方を許容しなくなったのが要因だと思う。とにかく、最近は映画の内容に対して答えや正しい解釈をやたらと求めるようになったとは思う。これはやはりネットに感想を書くときに「正しいこと」を書かなくてはいけないという恐れとか、みんなが言う感想を自分も持ち合わせなくてはいけないという、ある種の同調意識から来ているのだと思う。

そうなってくると、どのような作品を観てもまずその描写の「正解」や「意図」を見出そうとする。となると、映画の登場人物はあくまでも「脚本に動されている作りもの」という非常に現実的でドライな目線で捉えてしまうようになる。だから「フィクションとは言え登場人物はそこに生きている」とは考えなくなってしまった。だから本来であれば「説明ゼリフ」みたいな没入感を阻害するような要素ですら、現代では歓迎されてしまうのだ。正解をちゃんと説明してくれた方が、みんなで同調し合うのには楽なのだ。

「ネットで“おもしろい”って声をあげるのは、勇気がいるんです。絶対に否定されないような、あらゆる人が傑作と認めている“勝ち馬”にしか、“おもしろい”って言えない空気がある。

だからこそ、みんな一般的な回答、多数派の意見を求めるようになり、個人の感想という要素は濃度が薄くなっていく。

 

そうなると観客はみんな「製作者の意図」という正解を求めるようになり、ネットやSNSのレビューは一定の決められた「統一見解」で染まってしまう。人それぞれ色々な見方をする、というのは今や当たり前では無くなっている。むしろ「観客の皆さんそれぞれが自由に感じ取ってください」なんてことを製作者が述べれば、雑に投げただの、曖昧な作品だの、意味不明なのが悪い、というマイナス評価を受けてしまう可能性すらある。今度は「意味わかんなかったよね?!」という同調を求めだすのだ。

 

かつては可視化されていなかった“幼稚な観客”、あるいは“思考を止めている観客”でも言える程度の感想が、不特定多数に向けて爆発的な拡散力で可視化されるようになった。そこに相応の人数が同調し、まとまった数になって製作委員会や制作スタッフの目に飛び込めば、彼らがその“民意”を完全に無視することはできないだろう。結果、「わかんなかった」と言われることを恐れるあまり、脚本の説明セリフが多くなっていく。

ただ、これは今に始まったことではなく、昔から分かりやすい単純明快な作品こそ大衆には歓迎されていたはずだ。確かに説明の多い映画が増えてくれば観る側の読解力は低下していくだろう。でもSNSの民意程度のモノで脚本に影響するなら、ハナから収益だけを優先した単純な作品を作っているはず。そういう人はそういう人向けに作品を作るので、そこの需要と供給はもともと成り立っていたと思う。本質的には映画の在り方は昔から今にかけてもそこまで変わっていない。コアな映画ファンと大衆映画ファンはいつの時代も理解し合えないものだ。

 

じゃあなぜこんなことが問題になったり記事になったりするのかというと、自分はそこにこそSNSの生み出した問題があると思っている。

鬼滅の刃』が説明ゼリフのオンパレードなのは事実だが、そんなこと言ったら俺が子供の頃に観てた『ダイの大冒険』だって説明ゼリフだらけだ。結局、「説明ゼリフは糞」という意見もこれまで可視化されていなかった民意の1つなのだと思う。自分もどちらかと言うと説明セリフが多いと萎えるタイプではあるが、別にそういう作品が存在することに対しては何も感じない。単に俺の中で嫌いな作品と分類されるだけである。

SNSの功罪は、そう言った本来住む世界が違った者たちを同じフィールドに上げ、一緒くたにしてしまうことで、「優劣」「善悪」という新たな壁を作り出そうとする行為自体にこそあるのだ。

 

だから俺はこの記事を読んで、なぜ「映画の見方は人それぞれである」という意見を言わないのかが不思議でならない。ぶっちゃけ、早送りしようが、ながら見しようが、金を払っているならどうしようと個人の自由であり、もともとそんな人はごまんといたはず。結局そこにいちいち「憂い」みたいな感情を持ち出してマウントを取るような行動こそ、ネットやSNSが生み出した悪しき感情だと思っている。

大体「〇〇への冒涜」とか言い出したジャンルには未来は無い。映画の解釈の仕方や鑑賞方法くらいで凄まじいマウントを取られるくらいなら、もう映画なんて観ねえよな。

同調圧力なんてものがこの世から消え去ればいいのにね。